Day After Day
tsurezure naru mamani...
ANOTHER DECADE

from 2022 when it's begining after/with CORONA Virus.

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京都 東寺口~山崎宿

9月
8
2023
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13.6km 24565歩/6時間05分


  5年振りに又街道歩きがしてみたくなって7月に企画してみたのだが、今年の余りの暑さを避け9月にと予定していた。 台風が北東に進み静岡辺りに上陸すると言う状況ではあったが、結果は真っ赤に日焼けする一日であった。

  只、京都駅出発時点から東寺の少し西までは雨に降られた。傘を差したりたたんだり程度ではあったが・・・。


     西国街道東寺口は鳥羽口とも言われ朱雀大路の南端に設けられた羅城門(後生では羅生門)を指していたようだ。
  京都駅八条東口で弥次さん(東海道から引き続きの弥次喜多道中と言うことで・・)と待ち合わせて、早速東寺 南大門へ(右・左写真=8:15)。
  九条通りまで下がって右折、取り敢えず真っ直ぐ西へ進むと五重の塔が見えてくる。(右・右写真=8:45 2133歩)
  東寺では明日(土曜日)音楽イベントが有るらしくステージと客席が準備中だった。
  京阪国道口の歩道橋で九条通りの左側へ渡っておく。この辺りから傘は要らなくなった。
  [九条御前]の交差点から西国街道は南西の方角に向く。東西南北の枡目になっている京都からするといかにも旧街道らしい。
  [西大路通西国街道]の交差点。この辺りでは西大路通りも南東向きとなり西国街道とは直角に交わる。 西大路通りの南端に位置しもう少し南へ行くと西大路という地名も使われなくなる。
  間もなく、西高瀬川を渡る。高瀬川が東に有るのは良く知っていたが西にも有るのは初めて知った。
  街道歩きはお腹が空く。弥次さんはパン屋さんを見つけて早速中へ。 年配のご夫婦が自家製のパンを商って居られる穴場、私はお腹いっぱいの朝食を取ってきたのでパスしたが「美味いうまい」と仕切りだった。
  [吉祥院西ノ茶屋]の信号を斜めにを渡って、更に直進する。
  西国街道がほぼ南向きになる頃に、真新しい道標が有る。日向地蔵尊の前である。
  間もなく、木々に囲まれてそれとは分からないが、右手に取ると街道は桂川沿いを南下する。

  何と言っても京都なのでこの広い川にも元々「久世橋」なるものが有ったのかは知らないが、渡し跡の様なものは見つからなかった。 長らく(うん十年)171号線(と思っていたら府道14号だそうだ)は通ってないので久世橋がもう一つ欠けられ片側2車線になっているのは全く知らなかった。
  [久世橋西詰]の交差点を4車線分横断して向こう突き当たりの細い歩道を右へ下りる。 如何にも、久世橋拡幅で埋まってしまったよという感じである。   
  過去にワープした様な感覚になる。これこそ街道歩きの爽やかさで有る。直ぐそばを大量の車が行き来しているなんてことは忘れてしまう。
  [久世殿城]交差点。この広い道路は国道171号線であるが、後で調べてみるとこの交差点から北側、久世橋方面が府道14号線、南側が国道171号線と言う事らしい。 西国街道は信号を渡り西進する。
  一里塚かと思えるような、立派な木の有る茅葺き(多分近代になって茅の部分を瓦葺きにされた)の家。 大きな門の中を覗いてみると一般の(元)農家であった。
  東海道新幹線の高架を過ぎるて暫くすると、JR京都線の地下トンネルに突き当たる。 長いトンネルの向こう側左へ階段を上がる。
  進行方向斜め左を見たところ。目の前の歩道を一つ渡り、次の大きな交差点の歩道を渡って、左方向に線路に沿って南下する道路に入る。
  JR京都線 向日町駅の前で斜め右方向(南西)に進路を取る。
  次の三叉路信号のそばを流れる西羽束師川に掛かる橋の袂に光明寺道の大道標が有る。少し開けた感じのする場所でコンビニも有ったので休憩することにした。

  出発して間もなく阪急京都線の踏切さしかかったが遮断機が下りた。ちょうど上手い具合に写真の端に電車が映り込んでくれた。
  踏切を越えて2,30m先に左手に入る脇道が有る。これが西国街道で有る。大きな道標が有り左 深田橋・京 右 一文字橋・山崎とある。 立派な常夜灯も有り、光明寺道との分岐点という意味でも重要なポイントだったのであろう。
  暫くすると信号のある交差点に来る。右手[競輪場前]から来た道と交わる向こう角に「西国街道」の道標と常夜灯がある。
  府道67号線(いわゆる物集女街道)に合流する。

  ほんの5,60m先に「旅籠 富永屋跡」の石碑が建っている。その敷地は今も子孫が継いで居られるのか「富永屋」というマンションになっていた。
  その名も[五辻]と言う、まるで広げた手のひらを見ている様な五叉路にやってくる。 左折する以外には前方に三つの選択肢が有るが、今まで来た道から見るとほぼ直線である、最も左の道に進む。物集女街道は真ん中。
  すでに気が付いている様に、この西国街道には他の道には無い石畳の歩道が付いている。これだけの距離整備が行き届いているところは他の街道にも余り無い。
  再び物集女街道に合流、直ぐに阪急京都線のガードをくぐる。出たところの初めての横断歩道を渡って物集女街道より右手の(今日は工事中だったが通してくれた)へ進む。
  6,7本大樹の立つ一角に突き当たる。ここでは又物集女街道と合流することになる。横断歩道を渡って木々の中へ。さらに一文橋を渡る。 災害で良く流されるので復興のため、室町時代から一文の通行料を徴収したとある。
  地図で見ると西国街道の石碑と言うのが川の堤防(物集女街道より向こう側)にある様だがやはり旧西国街道としてはこちらを選ぶべきだろう。 この先の右カーブで自然と合流する。
  合流すると直ぐに交差点[馬場一丁目]に来る。進行方向から斜め左前方に脇道が有り、よく見るとその入口に石碑が建っている。 やはり、街道には石畳歩道が有り街道歩きには本当に親切だ。
  見慣れた神足こうたりの文字「神足商店街」。 JRの駅が神足(今は長岡京になった?)で阪急の駅が長岡天神、この辺りは若かりし頃(未だ田圃が多かった)良く来ていた。「何故?」は内緒・・
  その頃は当然こんな広い道路じゃ無かった・・「長岡京市」と言う市制施行された頃の話だけど
  あっ肝心の西国街道は歩道を渡ってさらに直進。
  神足ふれあい町屋として喫茶も出来る、当時をしのばせる旧家。それにしてもこの辺りは西国街道全面石畳はすごい。
  一応三叉路なのだが、酒屋さんを移したかったのではなく、やはりここでも石畳が確実に道案内をしてくれている。この先で物集女街道に合流する。
  小さな川に掛かる小さな橋を渡ると直ぐに、西国街道は左へ逸れて行く。横断歩道の先の側道を歩いて行くと伝 与市兵衛の墓 0.2kmと書かれた石碑が見つかる。 西国街道歩きとは直接関係は無いが「仮名手本忠臣蔵」に出てくるおかるの父親と言う事の様だ???
  又一里塚かと思わせる樹木の有る公園に行き当たる。「立命館西公園」と案内板が有る。 ちょうど出てこられて先生らしき人に声を掛けて聞いてみたが一里塚では無いとの事。
  国登録有形文化財 中野家住宅(平成22年9月登録)は近郊の農家と町家としての特徴を合わせ持つ、貴重な建築物との事。 レストランとして営業している様だが、飲み物だけの休憩もOKとのことだったので靴を脱ぐ事にした。

  この道標は紛れもなく古いものだと分かる。しかし残念ながらスラスラとは読めない。 後で参考書で調べると(京側)右 やなぎ谷(柳谷) 左 よど(淀) (正面)春くやなぎ谷 右八阿多ご(右は愛宕) 左山さき(左 山崎)となる様だ。
  調子八角の道標は西国街道と丹波街道の分岐点に立っている。その丹波街道の真上を京都縦貫自動車道が走っている。 沓掛くつかけを通って正に丹波を目指している。何か時代の隙間に紛れ込んだような錯覚に陥ってしまった。
  大山崎町に入る。行く手左「よど」方面はきっと大雨が降っているに違いない。右手に見える天王山を回り込むと本日のゴール地点となる。もう少し。
  JRのガード下をくぐる。またすぐに名神高速の下となる。 この辺りの山側が天王山古戦場跡であり、反対側には大山崎ジャンクション、つまり現代の調子八角と言う事になる。
  大山崎の東黒門跡。東西に黒門が有り、街道が屈曲していて宿場の治安を守ったと有る。 多数の旅籠が連なりこの黒門に接していた高槻屋は大名も宿泊できる随一の旅籠であったと案内されている。 また、羽柴秀吉軍の先陣高山右近がこの門に陣取り、明智光秀軍が開門を求めて小競り合いとなり、合戦が始まったとある(大山崎町教育委員会)

  離宮八幡宮。本日のゴール地点。
  JR京都線 山崎駅は離宮八幡宮を右折して直ぐ。もう見えている。久し振りの街道歩きで結構足にも来ているのでちょうど良い距離であった。

  山崎駅で止まった各停電車、中を一番前まで行こうと待っていたら一両前が女性専用と書いてある。ホームを一両分走ったのが一番足に来た。 別に乗り鉄ではないのだが、歩いた道を確認しながら戻るのはいつもながら楽しい。

  5年ぶり「つぎはぎウォーク事始め」おしまい。(先は有るか不明)   

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