Day After Day
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ANOTHER DECADE

from 2022 when it's begining after/with CORONA Virus.

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横尾駅~今津宿~尾道宿~JR山陽本線尾道駅

5月
16
2025
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23.6km 38273歩/ 8時間15分


  福山駅へ向かう。

  少し待ち時間が有ったのでホームから見渡すと、福山城がすごく近い、城内を電車が通っているかの様な近さに驚いた。

  折り返し運転の福塩線、中高生すし詰め状態で到着。府中行きになると貸し切り状態。
  横尾駅で下車して早速、街道のつぎはぎポイントに向かう。
  「西国街道 鶴ヶ橋」のたもとを出発。学生の自転車を避けながら歩き出したら、自転車が通ってきた歩道橋を見過ごし車道を渡ってしまっていた。(08:06)

  堤防を下って初めての信号[新茶屋]を左折する。右側には歩道が有り次のポイントも右折なので信号を渡っておくことにする。
  車道が登り坂になる手前(奥野モータースが有る)を右手に入る。

  すぐ丁字路に突き当たるが、少し右に迂回すると堤防の上に出るスロープが有る。(写真の白い手すりの所: 08:34)

  なお、 地図上に示したように、少し手前からこのスロープまでの別の道を旧山陽道とする見方も有るようだ。
  芦田川あしだがわ大渡橋東詰おおわたりばしひがしづめ]の交差点を、横断歩道でぐるっと一回りして、橋の左側(下流側)の歩道を渡る。

  橋の少し上流側に「西国街道 大渡橋跡」が有ると地図には記されているが、歩道の反対側でもあり、よく分からなかった。 色々文献を読んでみたが「増水の時は舟で渡した」と言う記事をどこかで見かけた。沈下橋のような橋だったのだろうか。(写真は下流側:08:39)
  橋を渡り切ると、歩道の無い車道に不安を感じたが、よく見ると横断歩道を渡ったところに一部歩道が有り、側車道を横断すると堤防の中腹へ下る歩道が有った。 (08:44)

  この歩道は単に歩道ではなく、紛れもなく「西国街道」として整備されているようだ。
この地点では堤防を下り切ったところから迂回する 「旧中世山陽道」が有る。
  山陽自動車道の高架下を通りしばらく行くと、お地蔵さまが祀られている。何か曰くありげだったので案内板を読んでみた。 いい話だったので、そのまま案内板を掲載する。

  お地蔵さまから少し行くと、堤防中腹の歩道は無くなりそのまま車道に合流して右にカーブし、芦田川から離れて行く。(09:23)
  幾つか十字路が有るが、兎に角真っ直ぐ進めば西国街道から外れることはない。

  小さな橋を渡ってすぐ「見守り地蔵」の石碑が有る。(09:37)
  大きな榎木が目を引く交差点が有る。「西国街道 江良の一里塚跡」である。 真新しい石碑が建って居り、今風の表現で方位が記されている。また、この交差点右手からは、大渡橋西詰から別ルートを通って「旧中世山陽道」が合流している。 (09:45)

  ここには昔、一本松がそびえていたのだろうか。「旧一本松跡
  いよいよ山陽新幹線の高架をくぐるところまで南下して来た。

  加屋川かやがわに架かる加屋橋側道橋かやばしそくどうきょうを渡る。 敢えてこの小さな橋を納めたのは、僅かに一本だがバラの木が写っているのだが、これが10本以上も河岸に列を成し、ご老人が端正に手入れされていたからである。(10:20)
  真っ直ぐな道を進んでくると山陽本線に当たって右へカーブする。再び左へカーブする辺りにこの「地蔵堂」が有る。

  かなり歩いて来た。突然民家の中庭にそぐわぬ大きさの木が茂っている。よく見ると「西国街道 赤坂の一里塚跡」である。(11:09)
  そのまま下ってしまうと間違い。右手の平坦な道を行く。

  すぐ先に大きな石の乗った台座が有る。「金刀比羅宮常夜灯跡ことひらぐうじょうやとうあと」。 どうも大きな灯篭が崩れた跡のようである。台座が丁度腰掛けやすい高さだったので、しばし休憩をさせてもらった。(11:15)
  集落を抜け、山沿いの道も下り坂となる辺りに「地神と常夜灯」が祀られている。

  その坂を下る途中に斜めに交わる道路が有るが、一般の生活道路で、街道はあくまでも直進で有る。(11:36)
  坂を下り切るちょっと手前に広場が有る。小さな運動場のような所だが、トイレらしきものが見えたので行ってみた。 この辺り、コンビニも無く非常に助かる。(写真は出口側から撮ったもの 11:41)

  車道と交差するが横断歩道を渡り、直進する。
  やっと本格的に下り坂となる。国道2号線(バイパス)とランプウェイ(2号線へ)の二重の高架となっているガードをくぐる。

  急坂を下ったところに「茶店・駕籠立場跡かごたてばあと」と地図には記されているのだが、小さな祠以外何もない。(11:56)
  しばらく振りで国道2号線に出た。少し歩道を進む。

  ちょっとの間集落内へ入る。
  又少しの間、国道の側道を進む。

  [福山西署入り口]と言う信号で斜め右の細い道に入る。(12:16)
  羽原川はばらがわと言う小さな川を渡る「羽称尾橋はしょうおばし」。

  緩やかに左カーブを描きながら進むと、直線に進む道と、さらに左へカーブしている道に分岐している。 どちらも西国街道の雰囲気であるが、ここは左の方へ進む。
  すぐに2号線に出る。

  [松永駅入り口][今津町大正]と信号を越え、次の[バスセンター前]で斜め右へ、国道から逸れる。

  ずっと店らしい店もコンビニも無かったが、ここに大きなドラッグストアが有ったので、 入ってみるとおにぎりやサンドイッチなどコンビニ並みに揃っていたのでお昼にした。(12:36)
  松永の市街地を進んでいくと、本郷川にぶつかる。少し左にオフセットして「吾妻橋あずまばし」を渡る。

  向こうが見渡せない僅かなクランク、曲尺手である。これが来ると宿場に入り、間もなく本陣が有るのだろうと想像できる。
  「西国街道 今津いまづ宿本陣河本家跡」。城郭のような石垣の上に建つ立派な本陣が現存している。 立派な庭も有る様だが、受付もなく入ることは出来ない雰囲気。現在も住まいされているのかも知れない。(13:17/24466歩)
  ここには社殿が有ったようだ。WEBを検索していると鳥居の向こうに社殿が有り、「陰陽石はその中の水中に安置してある」との記述。 又、2022年10月31日に閉鎖との記述も見られた。
  少し南下する方向に折れて進んで行くと藤井川に掛かる「真田橋さなだばし」を渡る。

  再び国道2号線に合流。側道をしばし行く。
  国道右手に「オートセンター」の看板が目立つ所に、斜めに分岐する西国街道が有る。(14:08)

  ちょっと迷う分かれ道。直進する。その昔はひょっとすると右だったかも知れないが、どの住宅も新しく街道筋を想起させる風情ではない。
  山裾をしばらく進むと「大松跡」の石碑が有る。
大松をたたえる
何百年もの間、神々の祭りを見守り、歴史とともに流れてきた。
時代の移ろいに心を動かされ、松や柏のような堅固なものさえも倒れる中、それに耐える姿には恥じ入るばかりだ。
まだ薪として燃え尽きてはいないが、力はまだ残っている。
その材は器となり、美を飾って、人の心を静かにさせるのだ。(ChatGPTより)  昭和23年枯死したようだ。(14:23)               
  山裾にひっそりと祠が有り、「恋の水」と記された石碑が建つ。(文書は後になっているが出現順は写真のとおり)
   「伊勢音頭 坊地下れば鶴亀山よ きよき 泉の恋の水」
恋の水碑 この碑の由来について『尾道の民話・伝説』の中に、次のような話が書かれています。 九州の薩摩藩第十六代の藩主 (1533~ 1611)島津義久侯の頃のお話です。 義久侯が参勤交代のため上洛の途中、ちようど高須の中ほどにさしかかったとき、たいへ んのどが乾いてきました。侯はそばつきの家来に水をさがさせました。そのときさがして 差 し出したのが、この恋の水だつたとい うのです。 行列は進んでやがて今津村に着きました。そのころ今津村の庄屋をつとめていた河本 と い う家にしばらく滞在 されましたところ、なぜかひどい熱病にかかられまし/た 。侯は しき りに水をほしがられますので、おそばの家来たちはこの村の水をくんできて差 し出しまし たが、どれも気に入 りません。侯は 「来る途中高須で飲んだあの水をもう一度飲みたい」 としきりに恋 しがられたそ うです。 そのときから、この話があた りに伝わって、誰言 うとなく「恋 しい水」、それがいつの 間にかなまつて 「恋の水」と云 うようになったといいます。

引用:備陽史探訪の会 第3回 旧山陽道を歩く(東尾道駅~尾道駅まで)付属PDF

  大松碑を過ぎるとすぐ、山沿いに右へ取る。足下に「右ちかみち」と記された石碑が有る。何に対して近道なのだろう?

  車道より一段高いところを道なりに行くと、「西国街道 高須の一里塚跡」が有る。 簡単な看板だが、こうして場所が分かると昔を想起できて旅が楽しくなる。(14:28)
  すぐ急坂を下りて車道へ。次の信号で向こう側へ渡る。

  横断歩道からもう見えているが、西国街道は左手へ坂を下りる細い道となる。(14:33)
  斜め丁字路となるが、向かう方向に従って右手に取る。

  地蔵堂が有りベンチ風になっていたので、リュックを下ろししばし休憩する。 今までも多く見られたが、この辺の地蔵堂はお地蔵さまが神棚のように上に祀られて、下には気楽に会話が楽しめるよう開放的な空間作りがされている。(14:35)
  さて、少しややこしい道筋を辿ることになる。近道は有るのだがたぶんできるだけ旧道に忠実にと考えた結果だろう。
  国道2号線尾道バイパスが高架となっている所に先に歩いてきた車道(高須線)がクロスしている。さらにバイパスへ出入りするランプウェイが高架両脇に有る。
  先ず、目の前の高須線を横断して向こう側へ。次にバイパスから下りてくるランプウェイを横断して高架をくぐり抜ける。(出たところ)
  出たところで見ているのは西の方からバイパスを下りてくるランプウェイ。ここから直接横断は出来ない。もう一度今度はバイパスに合流していくランプウェイを横断。 先ほど渡った高須線を横断。
  目的の西北側ランプウェイに入ったら、歩道は無いが左側道(バイパス直下)へ移動となる。ここには細いが歩道が有る。
  先でランプウェイと一般道が分かれておりバイパスの下を通るトンネルを出ると、坂上で車道と合流する。(14:54)  Map 参照
  溜池を右に見て進む。池の終わりで池に沿って行く平坦な道と坂道が有るが、西国街道は坂を上る。

  登り切ると三叉路のアスファルト道の角に出るが、メインの車道からは離れるように右折する。(15:08)
  三叉路向こう側に建つ「六字名号石碑ろくじみょうごうせきひ」。「南無阿弥陀仏」と記されている。

  道なりに行くと尾道バイパスの下をくぐり山へ入る。余り無理をせず歩幅を小さくして登る。とは言えアスファルト道足下は問題ない。
  「防地峠ぼうぢとうげ」に建つ、芸州広島藩と備後福山藩の境を示す石碑。(15:24) さてここからは誰かさんが言った「人生下り坂最高~!」である。

  丁字路が有るので右手に取る。(15:25)
  ここからはつづら折りになっているのだが、大体は車社会の道路事情で、思ったとおり人が歩く西国街道はコンパクトに下りて行ける。 これは中山道でも東海道でもそうであった。

  先ずガードレールの切れ目から急坂を下りる。

  下り切るとつづら折りの車道を横断して、又急坂を下りる。
  最後に、ブロック壁に沿って階段を下りる。

  すると、西国街道はそのまま真っ直ぐに先に続いていると言う具合である。(15:29)   
  少し降りた所でY字路になっているが、真っ直ぐにどんどん下る。

  尾道バイパスの下をくぐり抜けたところに左へ行く道が有るが、これは最近開発されたものであろう。雰囲気からして違う。
  しばらく住宅地を下って来ると丁字路に突き当たる。拡張工事中のようだ。

  舗装されていない歩道ではあるが通行が制限されているわけでもなかったので、スムーズに山陽本線のガード下をくぐる。(15:49)
  山陽本線沿いの道路は横断して、その向こう側を西進する西国街道に入る。通称「本通り商店街」。

  石畳の整備された街道である。曲尺手かねんてが有り、宿場に入ったことを実感する。
  「石見銀山街道」でもある「薬師堂通り」と「本通り商店街」の交差点にちょっとしたテラスが有り、その角に「旧本陣」の文字が入っている。 笠岡屋と言う豪商であった小川家が本陣を担ったと予備知識があったので、すぐ東側のとおり「小川小路」辺りが本陣かと踏んでいたのだが・・・。 「西国街道 尾道宿本陣跡」。(15:59/35625歩)

  さらに宿場町商店街を行く。
  これも曲尺手かねんてだなと分かるS字を抜けてしばらくすると、「奉行所跡」の石碑が有る。 ここも市民の憩いの場となっている。

  商店街を出ると女性像が有る。「林芙美子」の像だとのこと。刻まれているのは「放浪記」の一節だそうだ。
  横断歩道を渡り、踏切を渡って「尾道駅」の西国街道に面した「北口」へ向かう。

  地下通路を通って2番乗り場へ・・・昨日と同じ福山のホテルへ向かう。
福山駅南口。Chromeに「福山駅南口 釣りのおじさん」と来てみたら、Geminiが次のように答えた。
因みに「五浦釣人いづらちょうじん」と読むらしい。

「五浦釣人」と銘打つこの像は、木彫の名匠として世に広く知られる平櫛田中氏(昭和54年108歳にて他界)の代表作の一つである。 明治期美術界の先覚者であり、日本美術院の創始者であった岡倉天心が五浦海岸釣りに清閑のひと時を托す姿を写す。



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