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ANOTHER DECADE

from 2022 when it's begining after/with CORONA Virus.

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井原いばら小田おだ駅~七日市なぬかいち宿~神辺かんなべ宿~福塩線横尾駅ふくえんせんよこおえき

5月
15
2025
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21.7km 35325歩/ 7時間22分


  4ヶ月振りとなる西国街道。8時前に岡山に着き、JR伯備線・井原鉄道と乗り継いで小田駅へ。 井原鉄道に乗り換えて清音駅を出ると前回早朝に震えながら渡った「高梁川」を渡る。(井原鉄道高梁川橋梁)

  途中前回歩いた道からこの鉄道を撮った場所を通過したので、逆に街道を撮ってみた。(前回写真)

  前回この駅から帰ったときは、すぐに階段を上がってしまったので、こんな立派な駅舎が有ることに気付かなかった。(09:19)

  切符は、第三セクターでありつつ全線(と思う)高架で、地元にはなくてはならない交通機関として、 素晴らしい取り組みをされているのが伝わってきたので、「記念に戴けますか」と聞いたところ、二つ返事でOKして戴いた。
  西国街道つぎはぎポイントまで移動し、いよいよ本日の街道歩きの始まりである。(09:27)

  歩き出してすぐに、街道愛好家が自作されたと思しき道標が目に飛び込んできた。それくらいインパクトが有る。 ここ堀越ほりこし宿は、矢掛やかげ七日市なぬかいち間の、 「間の宿あいのしゅく」である。
  横断歩道を2つ渡って、交差点向こう側の電話ボックス横を通る、細い道へ入る。 所々で旧山陽道と西国街道が別ルートで表記されている。がどちらが正しいか、又時代によってどちらも正しいかは分からない。 でも、できるだけ現代の車道からは離れたい気分。 (09:42)

  一旦国道に出るが、又すぐトレーラハウスのモデルハウスが設置されているところから脇道に入る。
  大きな駐車場に突き当たる。たぶん昔は真っ直ぐ街道が有ったのだろうと想像しながら、私有地なので横断せず国道に戻る。

  山沿いに少し行くと、井原鉄道のガード下をくぐる脇道が有る。これが西国街道である。 (09:55) 上り坂で井原鉄道を見下ろすように上って行く。
  登り切ると集落がある。やはりこの旧街道らしさが落ち着く。
  少しずつ下っていくと、丁字路に突き当たる。西国街道は左に折れて再び井原鉄道をくぐるのだが、ここを右へ進むと「旧中世山陽道」となる。(10:02)
中世とは、平安時代後期から戦国時代(16世紀)まで、約500年間を指し、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代を包括します。近世は、江戸時代を指し、1603年の江戸幕府成立から1869年の明治維新までを指します。
(by Gemini一部省略)

  再び、国道に出て側道を行く。

  かなりの距離小田川に沿って国道486号線を行くと、[荏原えばら駅→] の道路標識を過ぎ、数百メートル行ったところに右手に入る西国街道が有る。 (10:32)
  細い旧道を抜けると、又国道が見えて来るのだが、合流はせず建物の裏手へと進む。

  井原鉄道の高架を過ぎて集落に入ると、白く見えるコンクリートの路地が有る。 どうも集落の事情で道筋が変更された感じではあるが、先ほど分かれ道を通った「旧中世山陽道」がここで合流してくる。(10:44)
  少し先で国道に合流する。

  山裾を過ぎると、そこそこ幅を持った車道として西国街道は右手へ分かれる。ケーキ屋さんの看板が目を引く。(10:48)
  雄神橋おがみばしを渡る。 下を流れる雄神川の上流は、道祖渓どうそけいと言われる景勝地で、永祥寺開山の時道祖神の化身である稚児が居たとの伝説から、 そう呼ばれるようになったと、 井原市観光協会のホームページに有る。

  この辺りの住宅は昔の城内に位置するようだ。又水田に段差が有り、低くなっている水田は堀跡であるらしい。(11:02)
  直交はしていないが、さらに西へ西へと進む。

  曲尺手かねんてと思しきオフセット。間もなく宿場町と言うところには枡形ますがたやこのような曲尺手が有る事が多い。 宿場に入るに際し向こうの見通せない場所で身繕いをしたと「東海道」を歩いたときに書いてあったのを思い出した。枡形は主に大きく折れたところで防御の意味が強い。 (11:12)
  気が付かず一度通り過ぎてしまった。この緩やかに左カーブした道は車社会になった現代に着けられたもので、西国街道は少し手前を左折する。

  真っ直ぐな街道を行くと、先ほどの車道と国道486号線が交わる[西新町]の信号のすぐ隣に出る。 さらに直進なのだが、信号に迂回した方が安全である。(11:45=分岐点と信号の区間を戻った)
  道なりに進むと堤防に上がる。(12:03)

  朱色の鉄橋に沿って歩道橋がある。江戸末期(1857年)に木製の橋が架けられ、後に流出したため大正期にトラス橋として、50m上流に架け替えられた。 (参照:おかやまの歴史的土木・近現代建築資産)
  橋を渡るともう七日市の宿場である。すぐに「西国街道 七日市宿なぬかいちじゅく本陣屋敷跡地」の石碑が見つかる。 (12:12/14683歩)

  1kmほど街中を歩いて行くと、複雑に道が絡まった交差点にやって来る。ここは取り敢えず道路右(北)側のゼブラゾーンに張り付いて西進すれば間違わない。(12:30)
  間もなく灯篭と鳥居が見えて来る。「金比羅大権現常夜灯こんぴらだいげんげんじょうやとう」と岩山神社の鳥居である。 この街道は兎に角灯篭が多い。これからも相当数出現する。

  右手に取ってしばらくすると、「下出部しもいずえの一里塚跡」の石碑が右側に有る。「いずえ」はちょっと読めない。(12:51)
  この辺りの街道はかなり旅人の優先度が高い。車との棲み分けの話であるが、見たとおり道路の半分が歩道である。

  「距 岡山元標十三里」の里程標。明治に入って距離を正しく測るために元標と里程標が設けられた。 ここは岡山市の元標から十三里の地点であると言う意味が記されている。(12:58)
  本来「舟夜燈ふなやとう」は灯台の意味で港にあるものと思うのだが、 ここは海からはほど遠い。舟のような台石に乗っている常夜灯という意味だろうか。

  「大曲跡おおまがありあと」。 案内板にも記載が有るが、1603年発刊の「日葡にっぽ辞書」によると街道で二ヶ所大きな直角の曲がりの有るところを指し、 つまり枡形ますがたのことである。 (13:09)
  国道313号線と直交するが、近辺に横断歩道が全く無い。十分に空白状況を見極めてそのまま突っ切る。

  真っ直ぐ進んでいくと一旦停止の十字路が有るのでここを左折する。大曲(枡形)の出口である。(13:13)
  「備中大橋跡びっちゅうおおはしあと」とはと探してみたけれど、ここに橋が架かっていた程度の記述しか見つからなかった。

  山裾伝いに少し行くと、またしても大きな灯篭が有り、堤防沿いの車道に合流する。(13:28)
  [井原市 高屋町]の標識を過ぎると高屋川を渡り、いよいよ「高屋宿」に入る。入口には相当に歴史を感じる鐘楼が有る。 (補修工事中であった) そしてここにも灯篭が有る。

  地図上には表記されているのだが「西国街道 高屋宿本陣跡」は案内も、それらしい建物も確認できなかった。(13:38)
  備中西国三十三観音霊場 第八番札所である「高山寺こうざんじ」へ十八丁(約1.8km)で有る事を示す道標。 この道標から見ても本陣跡の位置は正しいのだけど・・・。

  さらに進んでいくと、又もや灯篭が有る。「金比羅山こんぴらやま常夜灯」である。 金比羅さん(この場合は愛称)が近いからだろうか!?
  いよいよ広島県に入る。「広島・岡山管轄境界線」の石碑には七日市宿へ5km余り、岡山本町元標から54km、広島細工町元標まで118km、管轄境界線と記してある。 又、足下には平成17年2月災害により建替と有る。

  「西国街道 御陵ごりょうの一里塚跡」の石碑が有る。この先の交差点で少し判断を要した。
  この旅は、広義の西国街道(旧山崎道と旧山陽道)と言う定義であるが、実は狭義の西国街道も存在する。 つまり西宮から下関の間に、狭義の西国街道と旧山陽道が一致しない部分が有るのである。(中世山陽道は別として) 判断として西国街道と記されている方を優先とした。(でも気分次第ではあるが)
  左が旧山陽道、直進の坂が西国街道(狭義)。つまり東海道で言う脇街道と見ることにした。(14:22)
  しばらくして、ここにも「金比羅さんの常夜灯」。

  少しオフセットしているが直進する。

  大きく左カーブ、直進は美保神社への参道。
  少し南下すると十字路に来る。ここで左から来る旧山陽道と合流して右手(西方)へ向かう。

  しばらく行くと、又灯篭が現れる。「素戔嗚神社すさのおじんじゃ 常夜灯」と言い、ここから北へ向かって参道が続いている。
  広い左の方へ誘導されそうだが、細い方の直進が西国街道である。

  変則的な交差点にやって来る。交差するのは「石見銀山街道いわみぎんざんかいどう」と呼ばれる県道181号線である。 この交差点に交差するように「備後国分寺びんごこくぶんじ」の参道が有り、 「国分寺南大門跡」の石碑が建っている。(14:58) 直進する。
  堂々川堤防の道路に登り切る少し手前に、左手へ伸びる水平な道が有る。これが西国街道である。

  堤防から下りる車道の下をくぐり、道なりに右手へ下っていく。(15:02)
  国道313号線に斜めに合流するので側道を南下する。

  国道486号線との交差点[湯野口]を直進する。(15:08)
  堂々川が高屋川と合流する辺り、国道313号線が高屋川を渡るため少し上りになり始めた頃に、堂々川を渡り右手入る脇道が有る。 [神辺本陣→]の道標も掛かっている。

  しばらく高屋川沿いを進んでいくと、ガードレールだけの橋が有る。これを渡ってすぐ西国街道は堤防を下る。(15:25)
  大きく右カーブしてしばらくすると、右手に少し広い場所が有って、小さな祠と供に「西国街道 平野の一里塚跡」の石碑が建っている。 案内板には「荒神社」「辻堂」や井戸も描かれています。
  この絵は「特別史跡 廉塾れんじゅくならびに菅茶山かんちゃざん旧宅」と記された史跡の塀に掛けられている。 京都で朱子学を学び神辺に塾を開いた菅茶山は漢詩人でもあり、困窮時に備えて米麦を蓄えておく朱子社倉法を実践した実業家でもあったと記されている。(15:39)
  数軒先の左側に「東本陣跡」の案内板が掛けられている。もうすでにこの辺りは神辺宿の東外れで、先ほどの菅茶山はこの東本陣で生まれたとも記されていた。

  「旧山陽道 神邊驛跡かんなべえきあと太閤屋敷たいこうやしきあと』」と記された新しい石碑であるが、 あまりの達筆に惹かれて読んでみると、太閤秀吉が朝鮮役よりの帰途立ち寄った館の跡と有る。(15:42)
  左に折れ、一筋目を右に折れ枡形を行く。
  「西国街道 神辺宿かんなべじゅく本陣跡」。建物が現存する。最も奥に見えるのが正面の門である。 門扉の横には「広島県指定重要文化財 史跡 神辺本陣」と記されている。(15:52/33397歩)

  宿場を直進すると丁字路に行き当たる。西国街道はここで大きく左に折れ、南下する。
  間もなく国道313号線が左から近づいて来て、[神辺駅入口]信号付近で合流する。 次のポイントはこの国道を左に外れるので、どこかで左(東)側歩道に移って置いた方が良い。

  そのポイントである分岐点。横断歩道が無く、時間帯にも依るが交通量が多くカーブで危険。(16:13)
  のどかな山裾を進み広いところに出ると、ちょっと見えにくいが左側に池が有り、それに沿って上り坂の車道とその右下を水平に続く西国街道が有る。

  左へカーブして西進すると広い車道に出る。西国街道を歩く人向けには設計されていないので大きく迂回するしかない。 左手の坂上に有る横断歩道を渡り階段を下りたところが西国街道である。(16:33)
  しばらくして車の多い道路と合流するがそう広くない所も有り注意しながら歩いて行く。道幅を広げるのか別に高架になるのか橋脚だけが建っており工事中であった。

  程なく橋を渡ろうとする車列が見え、本日のゴールを確認する。明日はこの橋を渡って尾道に向かう。(16:49)


  最寄り駅のJR福塩線横尾駅。
  幾つか限られるICOCAが使える駅の一つだそうだ。
  福山駅前のホテルへ向かう。


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