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ANOTHER DECADE

from 2022 when it's begining after/with CORONA Virus.

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JR伯備線清音きよね駅~川辺かわべ宿~矢掛やかげ宿~井原いばら小田おだ

1月
29
2025
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19.8km 42979歩/ 7時間18分


  総社駅前のホテルを7時に出発。のっけから「電車が遅れております。」のアナウンスに続く2本分の通勤・通学のお客さんでごった返すホーム。 一駅4分の乗車で清音駅へ着くと、いつものガランとした開放的な雰囲気にほっとする。

  昨日の継続地点である高架下の駐車場で出発式。万歩計をリセットし時刻を記録して堤防を上がる。(07:25)
  丁度上がりきったところに自転車歩行者専用の立派な(車がすれ違えるほどの)橋が架かっている。空は澄み切っているが、故に橋の上は寒さ倍増。 これだけの川、渡しが有ったと思うのだが見当たらなかった。
  渡りきったところに、堤防から左手へ下りていく道が有る。 これを下ったところのカーブ(写真左端の車の辺り)に、実は「西国街道 川辺かわべの一里塚跡」が有ったのだが、 安全のため縁に沿って右側を歩いたため見逃してしまった。
  程なく左手に大きな石碑が有り、まず通り過ぎることは無いだろうと思われる「西国街道 川辺かわべ宿本陣跡」が有る。 (07:45/2220歩)

  右手少し向こうに「西国街道 川辺宿脇本陣わきほんじん」も見通せる。石碑はいずれも新しいもののようである。
  [川辺バイパス西]と言う信号でバイパスが合流して来る。ホテルの食事はパンとコーヒーが7時からであったので、食べずに出てきた。 ちょっと期待できそうな道筋である。(結果はかなり先までコンビニは無かったのだが・・08:01)
  倉敷市立真備まび図書館と言うそれはそれは立派な図書館を過ぎてすぐ、 [二万口にまんぐち]と言う信号の角を右折する。枡形である。(東海道では「曲尺手かねんて」とも言った 08:27)
  ところで、真備はこの地の呼び方としては「まび」であるが、 奈良時代の公卿くぎょう吉備真備の場合は「きびの まきび」と読むとWikiに有る。
  もう一度直角に折れて枡形を出る。

  真っ直ぐに車道と合流する。(まっ、車道の方が後で枡形の角を取ったバイパスなのだが 08:33)
  しばらくしてやっとコンビニを見つけ、しっかりとした弁当を食べて人心地。
  少し先に小さな川が有り「備中箭田びっちゅやたの土手」に「吉備公墳」と記された石碑が有る。 文字の意味は「吉備公(吉備真備)ゆかりの地」だそうである。(09:12)
  集落内を大きく右カーブすると「西国街道 箭田の一里塚跡」の石碑が有る。(09:16)
  一里塚を過ぎたところで中世(平安~室町時代)の山陽道が右手へ続いている。   Google Map 参照

  道路標識で現代の地理的位置を確認する。ふりがなが無いと読み間違う地名が多い。

  国道486号線に合流する。(09:30)
  田園風景の中を国道沿いに行くと右側の住宅を挟むように、川沿いに脇道が続いている。これが西国街道である。(09:44)

  コンビニの裏を通って再び国道486号線に戻る。

  真っ直ぐな国道が緩やかに左カーブし出す辺りに横断歩道が有る。次に右に入るのでそのまま行きたいのだが側道が無くかなり危険。
  資源回収業者の一角を過ぎたところに有る川の左岸に沿って道路が有る。歩道が無いので良く確認して渡るしか無い。(10:22)
  少し先に堤防を下りる細道が有り、田んぼの中の旧街道となる。

  少し地図を見ながら想像してみたのだが、どうも枡形が有りそうな場所でもなく本当は直線的な道なのではないかと。
  Google Map 参照
  集落が近づく辺りに右手から丁字路となる道が有る。先ほど分岐して山裾を辿ってきた旧中世の山陽道がここで合流する。 さらに少し行くと国道に合流するのだが、やはり歩道が左側しか無く、丁度少し戻った所に横断歩道が有ったので渡る。(10:35)
  しかしそれも途中まででガードレールは有るが歩道は無い。正しくは西国街道ではないのかも知れないが堤防沿いの遊歩道を通ることにした。 途中、「西国街道 の一里塚跡」がガードレール内側に有るので、堤防から下りそれだけ確認した。(10:45)
  国道の北側歩道に渡りしばらく行くと、常夜燈、地神塔、石仏が並んで居る。ここから山裾に沿って細い道路が有り旧街道らしくなる。(10:59)
  集落を抜け少し行くと井原鉄道の高架下をくぐる。さらにもう一つ集落を抜けると、もう一度同じ高架をくぐる。 タイミング良く一両編成だが綺麗な車両が通りかかった。今日の帰りはあれに乗る。それにしても第三セクタで、ほぼ全線高架、新しい車両と立派なものだ
  田んぼの中の一本道を真っ直ぐに進んで行くと、小田川沿いを走る国道486号線(県道35号線)にぶつかる。 「行部いくべの道標」が角の民家の陰に有ったはずなのだが、現代版[行部]を見て、そそくさと曲がってしまった。(11:57)

  右手に取ってすぐ目の前の山裾を越えると右手山沿いに集落へと入る。(12:01)
  矢掛やかげ神社鳥居前に有る住宅の手前を左に折れ田んぼ道を行く。神社の名前から矢掛宿は間もなくだろう。(12:07)

  堤防を上り詰めると立派な石碑が建っている。「郷社ごうしゃの碑」と言い、 矢掛神社が村社から格上げされたことを祝したものらしい。因みに国幣社こくへいしゃ府県社ふけんしゃ郷社ごうしゃ村社そんしゃの社格が有ると言うことのようだ。(12:11)
  堤防を下りると交差点が有りここから先が矢掛宿と分かる大きな案内が有る。力が入っていそうな予感。(12:14)

  先ずは「西国街道矢掛やかげの一里塚跡」が左側に、民家の板壁に沿うように建っている。(12:18)
  この辺りから宿場が見渡せるのだが、それはそれは立派な漆喰塗りの蔵や商家など大変見応えが有る。 その中の一つ街道北側に「西国街道 矢掛宿脇本陣 高草家」が有る。(12:20)
  すぐ近くに「大黒屋おこのみやき」の看板が目に入ったので昼食にすることとした。 ちょっと無愛想な大将だが、取り敢えず間が有ったら片付け拭き掃除に余念がなく焼き方は極めて職人的。暖まってほっとした。(12:23~13:10)
  「旧小西屋商店」景観整備でこの姿になったようだ。元は旅籠で大正時代に廃業、建材販売や車販売業を経て現在に至っている。(13:14)

  その2軒先に有るのが「西国街道 矢掛宿本陣 石井家」である。宿全体もさることながら本陣・脇本陣もしっかり残っており、本陣展示蔵も有るようだ。 休日には沢山の観光客が訪れるのだろう。(13:15/32321歩)
  「西国街道 旧山陽道矢掛宿の碑」。案内板に矢掛の読み方に付いての記述が有った。 実は当初個人的には「やがけ」だと思っていた。中世の山陽道を記したものに「屋蔭やかげという里で一夜の宿をとった」との一文が有り、 参勤交代が始まるとこの地に人家ともに移転したようだ。その時屋蔭に因んで「矢掛やかげ」と呼んだと言うことのようだ。
  「高通川たかとおりがわ 徒渡し跡かちわたしあと」の案内板。 徒渡しとは川を歩いて渡ることである。(13:25)
  以前箱根八里・・で思ったことだが草鞋わらじとは濡れた石畳、ここでは川底の石がぬめっても、 靴底のようにはすべらなかったのだろうなと。
  さて渡りきったところで注意すべきは車道の歩道は西国街道ではないと言うこと。写真の堤防を下りる細道が旧街道である。(13:29)
  その小道はしばらく続き、お地蔵様が立っているところで行き止まりとなるので、上の車道へ迂回する。(13:34)
  すのまま歩道を少し行くと自動車修理工場の裏手へ続く脇道が有る。(13:39)
  想像するに、あのお地蔵さんの後ろが塀で囲われていなければここに繋がっていたのだろう。多分私有地になっていたりするのだが。

  丁字路に突き当たるので左手へ曲がる。ここは間違いなく矢掛宿に出入りする際の枡形なのだろうと思う。(13:47)
  すぐに交差点が有るので横断して車道の左側歩道に入る。

  100mほどで左側に脊柱が見えて来る。「備中國江良村下原 下座所跡びっちゅのくにえらむらしもはら げざしょあと」。 村人が行列を土下座してお迎えしたと言うことのようである。(13:51)
  かなり長い時間真っ直ぐに真っ直ぐに黙々と歩いた。緩やかにS字にカーブする所から左に入るとだけ考えて。 S字の一つ目をカーブした辺りに石柱を見つけて近づいてみると、「西国街道 小田の一里塚跡」であった。(14:29)
  ここで振り返ってみると駐車場の様に見える所に明らかに道の名残がある。さらにその先には田んぼの畝道にしては広い草道が有る。 立ち話をしていた地元の人に聞いてみたらここを昔はバスが通っていたとの事。間違いなくこちらが西国街道であろう。
  畝道の外れには「備中國朝海村官蛇 下座所跡」の石碑が有った。

  道なりに進むと川沿いの草道で行き止まりとなり、小川に橋が架かっていたので車道に復帰した。(14:39)

  さらに少し行くと武家屋敷のような立派な家の角で、井原線小田駅最寄りとなり本日の終点とした。(14:43/42979歩)


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