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ANOTHER DECADE

from 2022 when it's begining after/with CORONA Virus.

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JR播磨高岡駅~鵤宿いかるが正條宿しょうじょう~片島宿~JR相生あいおい

5月
5-6
2024
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20.3km 39171歩/ 8時間24分(2日合計)


  いつものように、9時過ぎにJR姫新線 播磨高岡の駅に到着。小さな駅で駅員さんも居ないが何故かほっとする。

  数十メートル先に有る、西国街道、国道2号線の[高岡駅前]交差点へ。ここから西へ向かうが、先ずは国道向こう側へ歩道を渡る。
  すぐにシャープの会社前へ下るスロープが有る。ここを下りるのが本来の西国街道である。

  更にその先にはかなり細い農道のようではあるが、一応道が有る。しかし通行禁止のバーが有り行けるか不明ながら柵を避けて侵入すると、 丁度向こうから来られた農家の方が、「ここは西国街道やけど、残念ながら通れへんで!」と教えてくれた。 少し戻って、国道へ再び上る。
  なるほど高架上から見ると、姫新線を跨いでおり踏切は無く、周辺は農地に変貌している。高架を下った所に右へ入る分岐点が有り、戻る方向に街道の一部が残っている。   

  二十五霊場と言うのも有るようで道標が建っている。「左たつの」と書かれているが、その上に明和4年とある。 明和とは1764年~1772年と言うことなので1767年に建てられたらしい。
  暫く住宅地を進むと堤防に突き当たる。夢前川ゆめさきがわである。

  左少し先に有る国道2号線の夢前橋へ迂回する。向こう岸を回り込むように堤防に下り、先ほどの対岸辺りを目指す。  
  丁度この辺かというところに石段が有ったので下りてみる。残念ながら渡し跡のようなものは無かったが水量が多くない時期なら歩いて渡ったかも知れない。

  この石段を上がった堤防の向こう側が、西国街道の続きになっている。
  先ほどと同じ「圓光大師えんこうだいし」(法然上人)ゆかりの霊場道標である。
右  因州・伯州・作州・雲州 往来
左  備前・九州・金毘羅・宮嶋 往来
すぐ 姫路・大坂・京・江戸 往来

すぐは直進、往来は道の意味らしい。

  立派な寺(教専寺)の山門に気を引かれながら「内川橋」を渡る。
  少し先に往時を思い起こさせる旧家がある「かめや」と言う屋号が入っている。商家だったのだろうか。

  間もなく、国道2号線と合流するので適当な場所で南側歩道に渡っておく。
  2号線が左にカーブして南西向きになり、再び西向きになる辺りに十字路のような、丁字路のような変形の交差点が有る。 ここを2号線から少し左に逸れるように進み、すぐビルの裏側を斜め右に右折する。

  その先突き当たりのようになるので右手にオフセットして西に進む細い道に入る。
  突き当たりを左へ曲がるのだが住宅地の周回道路ではなく、その向こう側「順海寺」の道標と階段の下を左へ進む。

  道路の最も高いところをかなり過ぎたところに「山陽道山田峠」の石柱を発見。 その左脇に何やら踏み分け道のようなものが有る。
  上ってみると、丁度車道に向かって峠越えで下りていくような感じになっている。 車道は切り通しになっていたことから推察するに、その上の本来の峠を越えて下りてくる道が残っているのだと思う。道標は合流点に移設されたのだろう。

  右へ直進が西国街道とするのが普通(このグーグルマップも)かも知れないが、この山田という集落の中心は神社の参道沿いのような気がするので廻ってみた。
  三叉路の頂点神社前に、常夜灯が有り小さな石柱の道標が有る。

  そこを右折して参道を下ると、元の道に合流する。
  少し行くと「明治天皇山田御小休所おこやすみどころ」が有る。現在もお住まいの家屋のようだ。 案内板も高札場のような立派なもので掲示元も自治体ではなく文部省(昭和12年)である。

  2号線の太子竜野バイパス・姫路バイパスの高架下をくぐって右に折れていくと、179号線(このバイパスまで2号線)に出る直前、 左下の方に山田1号墳、右手に山田2号墳と言う古墳の石積みが有る。
  国道179号線の[山田]信号を渡って右側歩道を南下、ゆっくりと西にカーブして暫く真っ直ぐ進んだ山の向こう側に、大きな石碑が有る。 題目塚と言い、「南無妙法蓮華経」と掘られている。

  国道から離れてほっとする。坂を登り低い峠を越えて下る途中、竹藪の前に「桜井の水」と記された碑が建っている。 奥へ入る通路が有り、そこには蓋がされているが、井戸が有る。
  住宅地に下りてきて暫く行くと、十字路の角に地蔵堂が有る。前に立つ碑には「行基菩薩作『太田の地蔵様』」と有る。

  家並みを過ぎると再び179号線に合流する。食事をしようと「とんから亭」という店に入るが、何故か余り食欲が無い。 ご飯も減らして貰って何とか食べ残さず済ませたが、胃がむかむかしてきて苦しい。
  1時間余り休憩して何とか出発したが、これが異変の始まりだった。(12:10~13:???/15057歩)
  179号線は右へ逸れていくが西国街道は歩道橋を渡り、真っ直ぐに進む。 いつものスタイルで左手にスマホを持ち、自分で描いたグーグルマイマップ、右手には愛用のデジカメ・・なのだが、スマホを見ると車酔いのように気分が悪い。 暫く歩いた先の十字路で車を待とうと足を止めた瞬間、両足ともふくらはぎが攣ってしまった
  本来ならばここは大きく北へ外れたところに(マップ参照)宿場(いかるが宿)が有ったらしいとの情報で街道から外れるつもりだった。
  とても遠回りする気になれずそのまま、小股のかかと歩きで林田川堤防に到り、すぐ右側を並走する県道725号線に迂回した。

  堤防沿いに下って行く脇道に入ると、丁度対岸の街道から見て直線になる辺りで集落に入る。足は何とか保っている
  かなり距離が稼げた。「乗願寺」というお寺の前で左へ折れる。
  さらに田園地帯を少し気分良く慣れてきた感じで進んでいたとき、もう少しで突き当たりと言う、小川に架かる小橋の上で再び痙攣に襲われる。 前回同様弥次さんの肩を借りてガードレールへもたれて休む。
  突き当たりを右折して国道2号線へ迂回すべく歩くも交差点手前で三度みたびかなり激しい痙攣。 見かねた弥次さんが飲み物を買いに走ってくれた。暫く足を休ませて国道に出たところで縁石に腰を下ろし、買ってきてくれた飲み物を一本丸呑みした。
  その後は攣る事無く、歩き方が変ではあるが歩くことが出来た。

  揖保川を渡り川沿いに山陽本線をくぐって下ると、 先ほどの突き当たりの延長線上に当たるところに「正條しょうじょうの渡し場跡」の道標が有る。 ここからすぐ堤防を下るのも、少し先まで行って下るのも西国街道としては間違いないようだ。
  堤防沿いの次の右折場所。

  郵便局前の石柱道標。二経路はここで合流する事になる。

  南正面 右 飛免ぢかうべ (姫路・神戸)
      左 た津の山さき (竜野・山崎) 道
  東側面 明治十五年七月

  「西国街道 正條宿本陣 井口家」。(15:40/26379歩)
  暫く歩くとJR山陽線 竜野駅が有る。両足のふくらはぎに無理が掛からないように歩いていたら太腿の後ろ側(大腿二頭筋)が攣りそうに感じてきた。 この分だと、明日歩けるかも不明なので、ここで切り上げ一駅分電車でホテルへ向かうことにした。
  歩くのは厳しいが座っていればなんともないので、予定通り数十年ぶりの友人に会って、すっかりご馳走になってしまった。 おまけに何も言ってないのに見通したように痙攣止めの漢方までくれた。
  そのお陰でぐっすり眠って、朝五時頃からホテル周辺を軽くウォーキングして足の調子をみたところ、三回の痙攣で痛みは有るが普通には歩ける。 ただ、今日は昼から雨が雷を伴って降るとの予報。竜野駅まで戻って初日の予定だけ全うして帰ろうかと提案したら、弥次さんも賛成してくれた。

  再び竜野駅前西国街道(7:50)。

  町外れで左へ分岐し(上写真)、山沿いに次の集落へ入る。ここはもう片島宿である。
  「旧片島本陣跡」の石碑が建っている。実はその数軒手前にも地図上では片島宿本陣跡のマークが有るのだが、全く普通の民家で何の掲示も無かった。

  集落を出ると車止めの有る所に来るが、ここは直進する。
  車道(県道442号線:岩見揖保川線)の側道に出る。そこから前方を見ると斜め向こう直線上に西国街道が見える。

  写真の様に分岐するところが二ヶ所ほど有るが、何れも山に沿って左へ取る。
  「子守荒神」に向かう参道の石垣したを過ぎる辺りで、右手に取る。この辺りからはもう相生の市街地である。

  「相生那波野郵便局」の壁面を飾る狩野永徳の唐獅子図屏風と思いきや、相生産業高等学校2003年度卒業選択美術生徒作獅子牡丹絵図」と有る。 高校時代美術選択であった私としては見入ってしまった。
  道なりに進んで来ると垣根の途切れたようなところで広い車道の歩道に出る。

  交差点を越えて歩道を行くと、三角屋根のビルの右手へ逸れて行く道が有る。これが西国街道である。
  県道121号線と言う交通量の多い道路を斜めに突っ切って街道は進む。横断歩道が一ヶ所しか無く大回りをするように渡る。 渡り切ると写真の様に細い街道が見通せる。

  先ほど歩道に一部合流した車道に、再び合流する。
  次の交差点の手前と向こう側にモニュメントが有り、写真はイカのモニュメント。向こう側に夕べ泊まったホテルが見える。
  「鮎帰川あゆかえり」、語源に興味が沸いたので調べて見た。鮎には全く関係なかった。 源義経に攻められた平経盛が自害するに到る折、那波山城にいた侍女とその許嫁いいなづけが離ればなれとなった。 二人はこの川のほとりで良く出会っていたので村人が「逢帰谷あいかへりだに」と読んだのが変異したそうである。
  参照 相生の伝説
  相生駅最寄のスーパーマーケットの有る交差点が今回の終点。

  今回は身体的トラブルに見舞われて、一時はどうなる事かと思ったが仲間に助けられた。 これからは予定を決めたら直前は無理をしないこと(今回は寝不足が続いていた)。 また、水分不足はよく痙攣を引き起こすので良く補給すること。今までこんな事は無かったので大分身にしみた。 大いなる反省をしつつ帰路に着く。

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